備えと憂え倉庫

気が向いたら言わなくてもいいことを書く。

読書を記録しちゃいかんのか?

出典の名言は避けるが、年間何冊本を読んだり何本映画を観ると決めたり、記録をインターネットにのこすのに抵抗感を覚えるといった記事を読んだ。

私はそういう記録をして楽しんでいる方なので、そういう抵抗感はないのだが、彼ら彼女らからみると、気取ったダサい人種に見えるのかもしれない。

私がやたら本を読んで記録しようとおもったのは、私が記録魔であることもあるが、なんか見られてないと何も実行できないからだ。

本だって記録を見られるから読むというのは邪道かもしれないが、読まないよりは素敵なこともあるはずだし。

(自分が障害などの理由で就労をしておらず、読書や絵に打ち込むくらいしかすることがないのもあるが)「本を読まないことを誇る」のと「本を読みまくっていることを誇る」のとでは、どちらがいいのだろうか。

別に自分は誇ってるんじゃなくて、「読むから見守ってくれ」という気持ちで記録しているのかもしれない。

もう何で本を読んでいるのかよく分からなくなってきた。

むかし繋がってたTwitterの人も、「記録するために本を読むのはやめた」といっていたような気がする。

それがいやならやめてもいいけど、自分は読書記録に罪悪感を強く感じるようになるまでは、読書記録をやめないぞ、と、若干意地になってきた。

毎回ノルマを達成するのは健全なのか?

前にも書いたが、私は今、一日に最低限五つのノルマを課している。

 

1,読書

2,絵を描く

3,漫画を1冊読む

4,本を15分は読む

5,小説を書写する

 

これらのことを毎日やりとげたくて、タスク管理アプリをインストールし、記録しはじめて、23日になる。23日間全部達成している。

達成できたから、もちろん達成感はあるのだが、これらのことをノルマとしてやっていることに虚しさも覚える。

特に、絵を描くというノルマ。

1日でも描かないと下手になると私は思っているので、毎日描いたほうがいいけど、描きたくない時に描かれた絵は本当に幸せなのだろうか。

絵じゃなくて、ポーズマニアクスなど、練習にとどめておいたほうが、絵に対して失礼にならないかもしれないが。

 

「ノルマを達成しなきゃ」と思ってノルマを達成するのは、あまり強迫的になると不健全な気がする。

ゲーム『あつまれどうぶつの森』で、マイルを貯めるために、本当はやる気は無いことをやってしまうときのような、そんな罪悪感がある。

 

絶対にやらないと生活できないというノルマでないだけに、これらのことを必ずするべきか悩んでいる。

よっぽどやりたくなければ、やらなくていいんじゃないかな……

更新の頻度

ほんとうは毎日更新とかにしようと思っていたこのブログだが、毎日不平不満をしぼりだして無理に更新をするのは、精神衛生的に良くないと思うので、ここを更新するのは、SNSとかでも全然人に向けて言えないことが溜まったときにしようと思う。

昔から、義務感で毎日更新とかをやりがちだったのだが、ここは完全に息抜きの場にする予定だ。

さきほど、いいね(?)を頂いているのを拝見した。

積極的に人に見てもらうことを前提としてかいていないので、とても驚いた。

共感してくださっているのだろう。ありがとうございます。

普段は暇があれば絵を描いたり、Twitterにどうでもいいことを書いたり、通話をしまくったりという暮らしをしているが、こうしてつたないながらも文章を書いて残しておく体験をする時間というのもいいものだと思った。

つかれ

私は発達障害とか精神障害とかいろいろな不自由を抱えて生きている。

そんな中、精神面で障害を抱える方とお話しする機会がおおかったのだが、疲れた。

なぜかといえば、相手の人が、そういう障害を自虐ネタとして笑いを取ろうとするからだ。

私は全然笑えないので何も言わないが、おそらく指摘すると相手の人は一種の傷つきを覚えると思うし、ますます自分を卑下してしまうのだろう。

精神に障害があることは、表立って賞賛されるといったことではないが、かといって自分からでも笑いのネタにしてほしくないという気持ちがある。

その自虐は私や、ほかの障害がある人への攻撃にもなるからだ。

絵があまり上手でないと思っている人が「私は絵が下手だ」というようなもので、他の絵のまだ満足に書けない人への攻撃にもなると同じことだと、私は考える。

フォローを切ればいいのだろうけど、結局惰性で関係を続けてしまっている気がする。

社会からの逸脱を誇ったり、自分の生涯を自虐したり、その面を除けばいい人だから。

だが、もし本当に耐えきれなくなったら、すべてのSNSやらからご縁を斬らなければならないだろう。残念ながら、私の精神の安定のためだ。

障害があったら、自虐する気持ちは分かる。でもその自虐が他の同じ症状の人を傷つけるものであるという事に気づいて、そういうことをするのはやめて欲しい。

日課

家にいる事が多いので、

→絵を描く

→読書

→漫画を読む

→語学(中国語など)

→書写(小説を書きうつす)

日課にしている。アプリで管理しはじめて半月ほどたった。

いまのところ完遂できている。

本当は、フィットボクシング2とかもしたいのだが、あまりに体調がやばい時があるので、これという日にするのが難しい。本当は毎日やりたい。

 

文字の本や漫画をたくさん読もうとおもったのは、そのうち漫画を描く時になにかストーリーを作る助けになるかもしれないとおもって始めた事だが、いまのところ短編の漫画すらかけていない。いいかげん下手でいいから作るべきだが、そもそもコマ回りが分からない。

 

ついでにかなりの日記的内容だが、ペンやノートを大量に買ってきた。シャープペンシルの芯も買った。最近はボールペン(SARASA)派なので、シャープペンは全然使わないと思うのだが。

ノートは大量に使う。いろいろな小説やらを書写しまくっているし、勉強もまだしているから。

すごく久々に蛍光ペンも買った。それも2本。黄色いやつ。ノートは基本黒いボールペンだけで描いていたが、アクセントとしてほしくなってきた。

 

ノートも、もうちょっと綺麗なまとめ方というものをしてみたい。

今のところ参考書の書きうつしにすぎない。

 

ああ、Twitterで昨日までむなしかったが、今では一種の充足を覚える。

やはりSNS疲れだったのかもしれない。

評価と数字

はてなダイアリーはとても久しぶりだったので、記事を書いてダッシュボードをみてみたら、いろいろと評価をされるっぽい項目があってびっくりした。

TwitterやPixivなどでの評価におびえて今ここで愚痴をこぼしているのだが、またしても数字にびびることになってしまうのだろうか。

一番いいのは、自分のホームページで、日記のコーナーをつくり、カウンターも設置せずに一人でボチボチやることなのだろう。

そういったことをしないあたり、まだ人に見られたいという気持ちがあるのだなと感じる。

とにかく、しばらくは自他ともに精神的に落ち込んでいる話を読みたくないし、炎上やスパムなども見たくない。

評価と数字の話だが、数字が欲しいわけではなくて、正直に言うともっと欲しい。

私の宣伝が下手なのもあったり、人にあまりしたしくしていけないので、あまり数字が大量に伸びるということがない。

もちろん一桁でも評価を貰えるのはうれしいのだけれど、高みをそれなりに目指す身としては、もっと「いいねを押さねば気がすまない」と思ってもらえるような絵が描ければと思っている。

そんなことを思っているから疲れるのだけど。

絵を描くにあたって、数字がすべてじゃないし、少しの数字でもめちゃくちゃうれしいのだけど、もっと多くの数字を望むのは罪なのだろうか。数字を得るために絵を巧くしないと思うのは罪なのだろうか……。

思う事や思わない事

今日だけかもしれないけど、SNSに疲れた。人間関係にトラブルがあったわけじゃないけど、疲れた。

なのでブログに逃げてみることにした。

ブログを描くのはおそらく10年ぶりくらいだろう。

SNSでは絵を描いたりしていたが、ここで絵を公開することはないと思う。

できることなら、SNSでの誰だと気づかれたくない。

気づかれたくないなら、非公開にすればいいというのもそうだけど、それでもどこか誰かが見ていてくれないと寂しいいう心がある。

SNSに疲れたときにこれを使う予定なので、ここでの更新が無い時は、SNSを楽しんでいるか、それとももっとインターネットで自分を表現することがむなしくなっているときだろう。

文章が下手なのは許してほしい。mixiTwitterも長年やってきたが、まるで文章が上達していない。もっと推敲してかくべきなのかもしれないが、昔からの作文に対する苦手意識から、そういうことが全然できない。

 

とりあえず、今SNSをやることに嫌気がさしていることだけでもかけたので、今日はここで終わり。

また書くかどうかはわからない。

おそらく不満な時に書くブログになる気がするので、更新は無い方がいいのだ。